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レポート

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テスト前日なのに全然集中できませんね・・・・

こんなときばっかり余計なことをしてしまいます。

 

以下、この前提出したレポート抜粋です。最近思っていることのエッセイみたいになったので、若干変えてここにも載せときます。備忘録。

 

 

~示されるものをコントロールできる人はどこまで行っても示されるものを語ることはできない。示されるものは、内側からはあかされるものに関して示される次元を通して内側に対して何らかのアプローチができるのではないか?~

 

自分では得意だと思っていたのだが、私は自分を売り込むための話し方がどうも苦手であることが分かった。

就活が始まり、いわゆる自己アピールをしなければいけない時期に差し掛かっているのにも関わらず、面接において自分を売り込むことになかなか気持ちが載らず、勢いよく話すことができない。

先生のおっしゃったこの面接官のお話は、果たして本当なのだろうか疑ってしまう。その理由としては、やはり勢いよく、聞きやすく自分のアピールをできてコミュニケーションをとれる人がやはりインターンに合格しているし、面接官からの反応もよいと思っているからだ。面接官に確認したわけでは無いものの、やはり外側に「語られるもの」のみを観察されて評価されるのではないかと思う。

もし、「語られるもの」から染み出る「内側から示されるもの」で評価をされるのであれば、私はその方がありがたい。大学生として、経験を詰んできたと思っているが、それをなかなか出せない身としてはそれほどありがたいものはないのではないかと考えてしまう。

 

「面接官は語りを通して示されるものを読みとる」と先生がおっしゃっていたが、就活に限らず、世の中を生きていくにあたり人に評価されることは不可避である。

その中でいうと、どうしても外から見える「語り」がうまい人がどうしても得をし、得意でない人が損をする。「語り」が得意でない人が得意な人と同等に評価されるには、内にある「示されるもの」がそれ以上に光るものでないといけないのではないだろうかと考える。

そこで、どのようにすればただ技術を磨くだけでなく自分の示すものを表面に出すことができるのか考える。

それは、語るのは技術的にうまくなくとも、その稚拙な語りに、より多く「内側」を示すことができるような語り方をすればよいのだろう。要するに「示し」が見えやすければいいのだ。この「示し」の見えやすさは、必ずしも「語り」のうまさとは関係ないのではないか。

では、「語り」と「示し」が距離が近いということが求められる。「語り」の巧拙と異なるとなると、よけいにどのようにわかりやすく「示す」ことができるのかますますわからなくなってくる。

 

オチも結論もないけども載せるのはここでおわり。