『夢みたい』も、仲間がいれば現実にできる! 月面賞金レースに挑む日本の技術者チーム「HAKUTO」
(HAKUTO HPより)
あなたは、宝くじが当たったり、四次元に収納できるポケットを想像したり、夢みたいなことを想像してワクワクしたことはありませんか?
そんなとき、現実を見てちょっと落ち込み、空想の中だけでできることだと諦めていたかもしれません。
そこで今回ご紹介するのは、日本からGoogle Lunar Xprizeに挑戦する、HAKUTOです。
(HAKUTO HPより)
HAKUTOが挑むGoogle Lunar Xprizeとは、Googleのスポンサーのもと、XPRIZE財団によって運営される世界初の月面探査レースのこと。世界各国からチームが出場し、以下の3つのミッション達成を目指します。
①月面に純民間開発ロボット探査機を着陸させること
②着陸地点から500m移動すること
③高解像度の動画や静止画データを地球に送信すること
そのレースにSORATOと名付けられた月面走行ローバーを引っ提げて日本から出場するHAKUTOの目指す未来は、「ふつうの人が宇宙へいくことが、きっと日常になる」こと。
それを実現するべく、企業、大学、ボランティアなどで協力し、SORATOのミッション達成のために取り組んでいます。
HAKUTOは、開発部門、運営部門、広報部門に分かれて、12月の月面への出発に向けてteamHAKUTOの活動のプロモーションや、各国のチームと協力したり、試作品を日本各地で実験したり、SORATOのさらなる技術開発をしています。
team HAKUTOは、SORATOの走行技術が優れていることが評価されて「モビリティサブシステム中間賞」を受賞した経験もあり、2017年12月のミッション本番では優勝が期待されているのだとか!
HAKUTOの創始者は、大学時代宇宙工学を勉強していた袴田武史さん。ひょんなことからこのレースの存在を知り、プロジェクトに関わり始め、代表になります。最初はたったの4~5人で進めていたこのプロジェクトは、ベンチャー企業、研究機関、プロボノなど100人を超える大所帯となりました。
プロジェクトに参加する人々のきっかけは様々。たまたま行ったイベントでHAKUTOメンバーの話を聞いて感動した人、知り合いに頼まれて嫌々協力し始めたら夢中になってしまった人などなど。たくさんの人が多様なかかわり方をするHAKUTOですが、そこに共通するのは、HAKUTOのプロジェクトにワクワクし、そこに自分の夢を乗せているということでした。
多くの人を魅了し、多くの人を協力者としたこのプロジェクトは、今年の夏、「1億人のムーンチャレンジ」と称して日本中、世界中からSNSを通じて写真を集め、そのデータをSORATOに載せる取り組みを行いました。
HAKUTOの「『夢みたい』を現実に」というスローガンや、SORATOの月面への旅にとても大きな人が共感し、SORATOは、HAKUTOメンバーだけでなく、関わったたくさんの人、HAKUTOを知ったたくさんの人の夢やワクワクを載せた、みんなの宇宙船となって月面へ旅立つのです。
HAKUTOのホームページを見ると、関わっている人々たちが「この計画が楽しくてたまらない!」「優勝したあとの未来に心からワクワクする!」と楽しんでいる感情をひしひしと伝わってきます。
普段、未経験のことに対しては控えめになってしまう、またはそもそもチャレンジをしないという意思決定をしてしまうことがあると思います。しかし仲間を集め、一緒の夢を描いてワクワクすれば、夢の実現も可能であるということを、このHAKUTOは教えてくれました。
この機会に、「『夢みたい』を現実に」を胸に、未知のことにチャレンジしてみませんか?
緑の葉が目立つ原宿から
こんにちは。
ユキです。また原宿からお送りしています。
「基本に則ってないオリジナルなんて、ただの自己満足よ!」
という趣旨のセリフを、なにかの映画で聞いたことがあります。
前回、グリーンズの学校に参加したのは2週間前。
台風の2週間を経て、晴れた週末となった今日、また学校があり、また原宿にいます。
- 前回の授業について
- 出た宿題と今日の授業
この順番で、クラスレポートを書きます。
前回が初めてのクラスだったわけですが、メンバーは9割社会人の方でした。
皆さん、NPOに所属している方、新卒で入った会社を退職してライターをしている方、小学校教員を退職して地元で農業を営む決意をした方など、様々でした。
参加者の中に多かったのは、通称マイプロ 自分で立ち上げた何らかのプロジェクトを広報したいがために、文章力を付けたい ということを語る方でした。
前回のクラスの内容としては、トピックについて事前調べをしてきたメモを基に、フォーマットに沿って文章に組み立てるというグループワークを行いました。
個人的には、拍子抜けでした。
「ライターとしての極意!」みたいな、抽象的なことを注入され、自由に書いてみろ!!
と言われるのかと、半ばそれを期待して行ったのですが、それに反して、ガチガチの型にはめることから始まったからです。
面食らいましたが、そこで冒頭のセリフが出てくるのです。
オリジナリティを出すのは、基礎がないとだめですよね。
土台がなくてお城を立てたところで崩れてしまいますしね。
2.出た宿題と今日の授業
「フォーマットに沿って自分のトピックをあてはめてライトエッセイを書いてみる」という宿題が出ました。
やっぱり型がガチガチです。
それを埋めて、今日の授業に持っていきます。
今日の授業は、校正 をします。
きっとグループワークで校正をして、「正しい校正」を学ぶのだと思います。
そして今日は、「出会えたことを楽しむ会」と称して、懇親会があります。
ちょっとオシャレな料理屋さんで、おいしい和食を食べられるようです。
楽しみ!
では!
雨の原宿から
新しい趣味・まちあるき!
こんにちは。
最近、新しい趣味を見つけました。見つけようと思って見つけたのではなく、なんとなく自分の気になることをしてみたら思いのほか楽しく感じ、
「これって趣味と呼べるのではないか」
と気づいたわけでございます。
それは、
「街歩き動画撮影」
です。
最近デジカメを持って街歩きをしていて、手ぶれがないように練習をちょっとずつしてきています。
その中で先週撮った動画が「「比較的」」手ぶれがなくて見やすかったし、私の家の所在地もバレないので、試しにアップロードします!
(でもどこからどこまで歩いているか、わかる人には分かってしまいます。)
【背景】
私の趣味が動画を撮ることになったのは、きっと私がテレビ大好きだからだと思うのです。
小さいころからテレビっ子で、静止画よりは動画のほうが好きなのです。そのなかでも最近は、BSとかNHKで放送している、街歩き番組が好き。
【実際撮ってみて】
これだけ手ぶれなくきれいに撮るのはやはり技術が必要だと感じます。
人の目線で固定して、目移りしないようにゆっくりした動きで、でも面白い動きをしているものごとは見逃さずにカメラでとらえる。
歩くことにとらわれすぎずに、周りを俯瞰する目が必要なわけです。
【今回】
今回は、私が住んでいる街の繁華街から、私の用事があった雑居ビルまで歩く様子を示しています。
音量を大きめにすると、すれ違う人々の話声が聞こえてきたり、
足音も聞こえてきます。
やはり平日の夕方だから、歩く人はみんな大人の人。これから飲みに行く人たちが多めに目に入ってきます。
私は動画をぶれずに撮りたいのでゆっくりめに歩いているわけですが、やはり歩き行く人々はさっさと歩いていきます。
ギリギリで私をよけて歩いていく人がいたり。
今回は、夕方帰路につくひとや飲みに行く人の慌ただしさが、魅力の動画です。
こうやって動画サイトにあげてみると、もっとおもしろい動画を撮りたいなと思います。
街歩きではないけれど、前々からの夢だった、人の一日に密着する動画も、誰かをモデルにして撮りたいと思っています。
真実を撮りたいと思っているので、映画とかドラマを撮りたいわけでは無いのです。
ほか、撮ったら面白そうな道や、撮ってほしい旅行とかあったら撮りたいな。。。
ただの、「動画を撮ること」だけど、どんどん発展していける趣味です。
飽きないように、新しいものを撮り続けたいな。
【シリーズ化するかも!】身の上話 episode1.0
今週のお題「私のおじいちゃん、おばあちゃん」
これに載って自分の身の上話シリーズを書いてみたら、後々自分の記憶がなくなり始めた時に役に立つのではないか?!と思い、おじいちゃんとおばあちゃんの話を書いてみます。
祖父:
#78歳(多分)#栃木県出身 #山菜取りが趣味 #6人兄弟 #真ん中(多分) #入れ歯 #高血圧 #酒 #たばこ
祖母
#78歳(多分) #山梨県出身 #友達が少ない #二人姉弟 #女子力高い #認知症 #腰痛持ち #杖
私の祖父母の基本情報は上記の感じ。
祖父は、6人兄弟の真ん中。6人は、男3人女3人にわかれていて、今では半分の3人くらいしか生き残っていない。多分だけど、祖父は典型的な田舎坊主だったと思う。結構な田舎に本家があるし、お金もなかった家庭だったみたいだから。
祖母は、大規模農家の娘で、その農家は今は祖母の弟が継いでいる。確か、祖母のお父さんは、戦死なさっていると聞いたことがある気がする。
祖父母は、東京で出会っている。二人とも当時出稼ぎで東京で働いていて、そこで出会って恋愛をしている。おそらくそれは1960~1970年代。
二人は、東京の地理には詳しいので、私が就活云々で東京に行くといろいろ地名を出してくる。
高度経済成長期に首都で働いていたから、きっと二人の収入はよかった方だと思う。なぜかというと、祖母が祖父に貢がせた、とても大きいオパールの指輪があるから。
今は認知症の祖母がどこかに無くさないように母が預かっているけど、なかなか見ない大きさの石がついた指輪。
祖父母は結婚式をしたのだろうか。。したとしたらどこでやったのだろう。。
彼らは結婚し、祖父の実家がある栃木に居を構える。ここできっと、祖父母共に職業を変えている。
祖父は何をしていたかわからないが、祖母は内職で家でミシンをずっと動かしていたらしい。もう今は無いけれど、とてもいいミシンだったそうな。
結婚当時、あんなに大きい指輪を買っていたにも関わらず、母が子供のころ、祖父母はとっても貧乏だったみたい。祖父の仕事がうまく稼げない仕事だったのだろう。
おそらくそのせいで、結婚した後は祖父はとても横暴な夫であり横暴な父だった。
いつでも酒を飲んで威張り散らしていたんだって。母が高校生くらいになると、母と祖父でとても喧嘩をしていたみたい。
祖父は6人兄弟で、みんながみんな栃木で家庭を持ったので、祖父母の親戚付き合いはとても多い。その親戚の中でもお金がない家庭なのがうちの祖父母の家で、そのせいで娘である母はとても悲しくて空しい思いをたくさんしたみたい。祖母も、お金がないけど親戚に付き合いにはお金がかかるわけで。その辺を、祖父の兄弟(だから祖母にとっては義兄弟)にたくさんいびられたりしたみたい。
祖母の今の超絶内気な性格は、このころの理不尽な夫と義兄弟の仕打ちによるものじゃないかなと、私は思っている。
母も経済状況に関して幼少期そんな経験をしているから、私には家のお金事情はあまりわからないような教育方針だったんだと思う。そのせいで私はお金に無頓着になっているわけだけど。
母の弟である伯父が割と良い高校に進んだり、母が看護師になったりして、だんだんと義兄弟との確執は和らいできたのだと思う。その他の親戚がそこまで安定した「いい人生」じゃなかったみたいだから。
イナカの人間の人に対する評価軸は「行った高校の偏差値」と「安定した職業か否か」に尽きるので。
母が成人したころから、私ができるくらいまでのことは、聞いたことないのでブラックボックス。でも祖父母は転職をいくつかして順調にお金を貯め、家を建て替えたり車を買ったりしているのは、この時期。
私ができて、私が物心ついていたころは、祖父はまだどこかで働いていた。どこだったんだろう。。。
祖母は、内職をとっくに畳み、ゴルフ場でキャディーさんをしていた。このころの祖母は身だしなみの綺麗な、上品なおばあさんだったな。
私の一番好きな祖母は、この時期の祖母かもしれない。いつも化粧品のいい匂いがして、良い鏡の前でおしろいを塗っているところをずっと眺めていた記憶があるし、父と母の喧嘩があって自宅から祖父母宅に出ていった時も、祖母に助けを求めていたし。
私が小学校・中学校に通っているときは、母が働き始めたので私の家に常に祖父か祖母がいた。小学校高学年、祖父が嫌いで嫌いでたまらなくて、意地悪な接し方をしていたのが悔やまれる。(亡くなったみたいな言い方するけどw)
結構な時間をここで祖父母と共有しておきながら、大した話もしなかったし、ただお世話してもらっていただけ。
なんであんな可愛くない孫の面倒を見てくれていたんだろうな。愛情ってフシギ。
ここで祖父のことが嫌いだったのは、もしかしたら私の反抗期だったのかもしれない。父と母に出なかった代わりに、祖父を心の中でけなし、こきおとすことで反抗期っぽい心の動きをしていたのかも。今思うと。
私が成績が良く進学校に進み、国立大に入ったことで、祖父母は兄弟たちにちょっと大きい顔ができているようだ。
大学1年か、2年の時、祖母の認知症が発覚した。
母が献身的に今でもサポートをしているが、当時一番ひどかった時期は、だれかれ構わずキツく当たり散らしていたみたい。
「あたしを精神病院にいれようとしてるんだろ!!」とか、
「助けて~~~!!!」とか言われたみたい。
でも私が仙台でえっちらおっちら暮らしているうちに、父と母で対策を実行していた。
具体的には、ほぼ毎週末外に連れ出し、脳に刺激を与えること。
認知症の方って、高確率でおうちに引きこもりがちになるらしい。年齢が高くなると腰が痛かったり足が動かなくなったりするものだし。
このころには父方の祖父母はどちらも亡くなっているので、父も熱心に祖父母の面倒を見ている。
父と母の努力と、律儀な薬の服用の成果で、認知症の進行はここ1年はストップしていて、祖母も穏やかに暮らしている。
でも、私が帰省するたびに祖母が痩せていき、祖父の耳が遠くなっているのはちょっとショック。
私が17歳から21歳になるのと同じだけ、祖父母にも年月は流れているんだもんなと、実家を出て切に感じます。
ここまでが大体、祖父母について私が知っていること。
たった2000字程度におさまっちゃうんだな。20年間生きてきて、祖父母と接しているのに。
今度また帰省して、もし気が向いたら、身の上話を聞いてみよう
ご無沙汰しております。
本当にご無沙汰しております。
日々に追われていてという言い訳をしつつも、何を書けばいいかわからなくなっておりました。
手帳は使っていたけど、実は今までサイトは覗いていなかった
ほぼ日
を読んで、このくらいでもいいのかなと思えたので、また書き始めます。
最近思うこと、言われたこと
(完全に私の備忘録)
・自分が追い付けないひとにはいくらでも出会う。今でもいっぱい出会っている。大事なのは、彼・彼女に追いつけない、雲の上の存在だとしてとらえるのではなく、出会って付き合った経験からどれだけその人のことを多くトレースできるかだということ
・全ての会社がソーシャルグッドであるべきだから、安いお金または無料で社会貢献をしてもてはやされる今の現状は速くなくなるべきだということ
・答えやすい質問より、困らせる質問
・野望って持っていなくてもいいのかな
どんな人にも、自分を卑下する必要はないって言うのは言われがちだけど、なかなか難しいよね、自分を自分でどう思うかっていうコントロールって。ただ卑下したり卑屈になったりしたところで生産性無いことが経験則としてあるから、一定のレベルで自分のことを評価しているに過ぎないわけで。
他人から「~~という意識を常に持っているね」って言われたところでそういう言い方をするということは、意識しかできてなくて効果は出ていないことを暗示しているのかなと、不必要な深読みをしたり、
ビジョナリーな人への慢性的な憧れとか、
でもこうやって頭の中にあることをグダグダ書いたところで果たして私の頭は整理されているのかとか、
くだらないことをグダグダ思ったりしています。
決して悲観的になっているわけでは無いけど、きっと今自分が嫌いになりはじめているぽいのでそういう思考に陥っているわけです。
撮っ散らかっているけど、今整理したい気持ちにもならないので、ここに散らかしておいて次の話を書きましょう
レポート
テスト前日なのに全然集中できませんね・・・・
こんなときばっかり余計なことをしてしまいます。
以下、この前提出したレポート抜粋です。最近思っていることのエッセイみたいになったので、若干変えてここにも載せときます。備忘録。
~示されるものをコントロールできる人はどこまで行っても示されるものを語ることはできない。示されるものは、内側からはあかされるものに関して示される次元を通して内側に対して何らかのアプローチができるのではないか?~
自分では得意だと思っていたのだが、私は自分を売り込むための話し方がどうも苦手であることが分かった。
就活が始まり、いわゆる自己アピールをしなければいけない時期に差し掛かっているのにも関わらず、面接において自分を売り込むことになかなか気持ちが載らず、勢いよく話すことができない。
先生のおっしゃったこの面接官のお話は、果たして本当なのだろうか疑ってしまう。その理由としては、やはり勢いよく、聞きやすく自分のアピールをできてコミュニケーションをとれる人がやはりインターンに合格しているし、面接官からの反応もよいと思っているからだ。面接官に確認したわけでは無いものの、やはり外側に「語られるもの」のみを観察されて評価されるのではないかと思う。
もし、「語られるもの」から染み出る「内側から示されるもの」で評価をされるのであれば、私はその方がありがたい。大学生として、経験を詰んできたと思っているが、それをなかなか出せない身としてはそれほどありがたいものはないのではないかと考えてしまう。
「面接官は語りを通して示されるものを読みとる」と先生がおっしゃっていたが、就活に限らず、世の中を生きていくにあたり人に評価されることは不可避である。
その中でいうと、どうしても外から見える「語り」がうまい人がどうしても得をし、得意でない人が損をする。「語り」が得意でない人が得意な人と同等に評価されるには、内にある「示されるもの」がそれ以上に光るものでないといけないのではないだろうかと考える。
そこで、どのようにすればただ技術を磨くだけでなく自分の示すものを表面に出すことができるのか考える。
それは、語るのは技術的にうまくなくとも、その稚拙な語りに、より多く「内側」を示すことができるような語り方をすればよいのだろう。要するに「示し」が見えやすければいいのだ。この「示し」の見えやすさは、必ずしも「語り」のうまさとは関係ないのではないか。
では、「語り」と「示し」が距離が近いということが求められる。「語り」の巧拙と異なるとなると、よけいにどのようにわかりやすく「示す」ことができるのかますますわからなくなってくる。
オチも結論もないけども載せるのはここでおわり。